金は使うためにあるし酒は飲むためにある

いつまで続くかわからないブログです

誕生日

今日は私の誕生日である。

私は、人に自分の誕生日を伝えるとき、「北島三郎と同じ日」だとか、数字の語呂合わせにちなんで「天使(104)の日ですよ。天使と言っても私はペテン師ですけどね…」と言ったりしている。ちなみに後者は軽いジョークのつもりで言っているのだが、笑いをとれたことは未だかつてない。きっと「寒い」と思われているのだろう…。

 

女性特有の恥じらいと、「精神年齢が実年齢に追いついていない」という劣等感のせいで、他人はさほど気にはしていないのだろうが、実年齢に触れることは抵抗がある。

多くの女性が経験することかもしれないが、誕生日を迎えるごとに、自分の年齢と向き合うと何だか複雑な気持ちになってくる。ある女優は「年齢なんて気にしない。ただの"ナンバリング"に過ぎない」と話していたが、そう堂々と胸を張れるまで、私はあとどれくらいかかるだろう。「年齢なんて気にしない」と笑顔で言えるよう、素敵に年を重ねたいものだ。

 

ところで、半ばツイッター上ではネタになりつつあるが、今年の3月、4年以上つきあった彼氏と別れた。青天の霹靂のような別れであったので、悲しいとか、傷ついた、という感情よりも、いまだに「ぽかん」と、心や体中が急に空っぽになってしまったような、そんな寂しい別れだった。

その彼と私は年齢がかなり離れていたので、私にとっては「恋人」や「パートナー」という精神的支柱であると同時に、それ以上に、人生の師であり、心から尊敬できる父親のような存在であった。大袈裟ではなく、今日私がこうして目標を持って生きていられるのは、ほとんど彼のお陰である。その彼は、私よりも随分長く生きているので、誕生日についてこんなことを言っていたのを覚えている。

 

―大人になって、若いころとかは、誕生日なんてめでたくもなんともなかったけれど、この歳になると、"ああ、今年も無事に誕生日を迎えられてよかったなぁ"って気持ちになるんだよ―

 

その時は、なるほど、年齢を私以上に重ねた年長者らしい感想だな、としか思わなかったが、彼の言う通り、本来誕生日は「迎えられてよかった」ものなのである。年齢を重ねることに慣れたり、憂鬱になるものではない。私の誕生日は、私を愛する両親にとって、親族や友人たちにとって、それは確かに「私」という存在が、刻々と生きている証であり、私自身にとっても、それは間違いなく感謝すべき出来事だ。

 

人は常日頃、自分が生きている、生かされていることをさも当たり前のように考えているが、しかし本当はそうではない。いつ、どのタイミングで命を失ってもおかしくない、そんな不確実で不確定な、不安定な人生の流れのなかで私たちは生きている。

思えば私は鬱病を患ったときに、命を失ってもなんら不思議ではなかったし、その他災害・事故でいつ命を失っても不思議でなかった。私は結果として"たまたま"生き残った命―そう考えれば、彼の言った通り"今年も無事誕生日を迎えられてよかった"という言葉は、まさにその通りであり、感謝の念しかない。

 

今年は実家で両親と誕生日を過ごしたが、ささやかにお祝いをしてもらったし、こうして私のことを気にかけてくれる人がいることは本当にありがたいことである。

新たな年齢を迎え、今日から1年間、またさまざまな出会いや出来事があるのだろう。来年の誕生日、今日のことを振り返ったときに、今の私が子どもで、未熟だったと思えるように、成長していたものである。

 

ツイッターではたくさんの方からお祝いのメッセージを頂き、本当にありがたい限りである。何も恩返しは出来ないかもしれないが、私はリアルでも、ツイッターでも、人に恵まれていると本当に思う。

今日は誕生日だから、ということを言い訳に、好きなものを好きなだけ食べて、好きなだけ飲んで、残りわずかのこの日を楽しみたいと思う。